LOGIN煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。
記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。 「炎が……」 リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。 ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。 しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。 「……神父様」 リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。 「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」 「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」 蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。 どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。 「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」 なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。 「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はありません。確かにこの村にあのような者たちが訪れたことはあなたやイーシュ君に端を発することかもしれません。しかし、あのような狼藉者たちに村を占拠され、好き勝手させてしまったのは私たちこの村の者の責任でもあります。あなたたちの場所を炙り出すためとはいえ、手段を選ばず、このようなことを冒したのはあの者たちです。 結果はともあれ、あなたたち二人はこの村のために、手を尽くそうとしてくれました。その気持ちは尊いものだと、少なくとも私はそう思いますよ」 「でも……わたしのしたことは、許されることじゃない……」 「シスター・リスル。そして、イーシュ君も。よくお聞きなさい。人間とは得てして不完全な生き物です。完璧などありえません。 今あなたが抱いている感情――恐怖も、後悔も、足掻こうとする意志も、あなたたちを人間たらしめるものに他なりません。何かを思い、感じる心を捨て去ってしまったとき、きっと人は人ではいられなくなります。 だから、あなたたちは大丈夫です。あなたたちは不幸を齎す人ならぬモノ――悪魔の祝福を受けた眷族などではありません。私の立場でこういったことを言うべきではありませんが、教義など関係なくそう思います。 あなたたちは、珍しい特技と強く優しい心を持った普通の人間です。生きることに不器用な愛しいただの人の子なんです。 だから、不完全でいい。あなたたちの足りない部分は誰かが補えばいいのですから。そうやって人は支え合って生きていくのですから」 「レイモン神父……」 レイモンのその言葉はリスルの胸の中にそっと沁み渡り、長い間凍りついていた心をほんの少し溶かしてくれた気がした。悪魔の眷属だの化け物だのと教会勢力に追い回され続けてきたけれど、ようやく存在を受け入れてもらえたように思えた。ほんの少しだけ、自分に対して肯定的になってもいいのかもしれないと思った。リスルは顔を上げ、微笑みを浮かべた。グリーンの双眸を縁取る睫毛に透明な雫が揺れていた。 「もし、それでもあなたがどうしても自分を許せなくて、何かしたいと言うのなら、無理のない範囲で逃げ遅れた人の救助や救護活動の手伝いをしてください。村の男手を集めて、村長の指示のもとに消火活動を行なってはいますが、それらにまでは手が回りきっていないのが現状ですから」 イーシュは頷きかけたが、ある疑問が頭をよぎった。 「手伝うのはいいんですけど、リスルさんや俺が村の中を歩き回っていいんですか? 神聖騎士団だっているでしょうし、このような事態を招いた俺たちのことを村の人たちはよく思っていないんじゃないですか?」 「神聖騎士団なら、今は被害の少ないシュオレ湖の方であなたたちが焼け出されて逃げてくるのを手ぐすね引いて待っていますから、村の中にはいませんよ。それに、あなたたちのことについては私から皆に言い含めておきますから、安心してください」 わかりました、とイーシュは今度こそ頷き、頭一個分高い位置にあるリスルの顔を見据えた。焦茶の双眸には凛とした強い光が宿っていた。 「リスルさん、役割分担しましょう。俺は救助の方に回ります。なので、リスルさんは怪我人の看護をお願いします。薬草の知識、あるんでしたよね?」 「ええ、まあ……だけど、イーシュ、危ないわ」 リスルは頷きつつも顔を曇らせた。まだ年若い少年に危険な役回りを押しつけてしまうことを案じてのことだった。 「わかってますよ、大丈夫です。俺も充分に気をつけますから、だから……絶対に後で会いましょう。約束です」 そう告げると、イーシュは身を翻し、燃え盛る炎の中へと飛び込んでいった。リスルは双眸に不安の色を揺らめかせながら、迷いのないその背中を見送った。 「教会の地下に救護所を設けています。ついてきてください」 レイモンに促され、リスルもその場を後にする。まだもう少しだけ、自分という人間にできることがあるのなら、この村のために力を尽くそうと彼女は思った。レイモンに案内され、礼拝堂の地下に造られたひんやりとした石造りの部屋に足を踏み入れた。先日、レイモンに導かれてロイゼン山から戻ってきた彼女とイーシュが一時的に身を隠していた場所だった。
床に敷かれた織物の上に並んで寝かせられた怪我人たちの呻き声やすすり泣きが反響して聞こえていた。逃げる途中で怪我や火傷を負った者が多く、その悲惨な光景はさながら戦場のようだった。 「シスター・リスル。シスター・アイリスと手分けして、怪我人の手当てをお願いします」 レイモンがそう言うと、かがみ込んで怪我人の傷の様子を見ていた腰まである黒のストレートヘアに菫色の瞳のシスター服の娘がちらりとこちらに一瞥をくれ、会釈をした。リスルも彼女へと会釈を返す。 レイモンは、すみませんがよろしくお願いしますね、とリスルへと頭を下げると、石段を駆け上っていった。それをちらりと見ながら、リスルは泥と煤で汚れた手を手近にあった洗面器の水で清めた。 リスルのそばに右足に怪我を負った中年の女性が寝かされていた。礼拝堂の斜向かいに住むマイアだった。リスルは膝を折り、マイアの傷を見ようとした。しかし、彼女がマイアに触れようとしたとき、その手が振り払われた。 「触るな……! あんた、『悪魔の力』を持つ『魔女』だろう!」 穢らわしいと言わんばかりに、表情を歪めてマイアはそう言い放った。その目の奥には得体の知れないものに対する恐怖が浮かんでいる。 先程、レイモンが事情を説明し、ここに集められた人々を言い含めてはくれていたが、人の負の感情というのはそう簡単に覆るものではない。 「わたしに対して何を言おうと、何を思おうとそれはあなたの勝手です。ですが、今は非常事態です。聞き分けてください」 リスルは静かな声で言い返した。しかし、リスルのその毅然とした態度が癪に触ったのか、マイアは喚き続ける。 「やめろ! 『魔女』なんかに触られたら足が腐る!」 「……お言葉ですけど、わたしが治療せずに放っておいても、その傷だと足が腐るかもしれませんよ」 「……」 リスルが冷静にそう告げると、女性はようやく静かになった。リスルの治療を受け入れる気になったというよりは、投げやりになってされるがままになったというふうではあったが、リスルはそれでも構わなかった。 リスルは彼女の右足の裂傷を確認し、傷口を洗った。ぱっくりと開いた傷を見ながら、これは何針か縫わないと駄目そうだとリスルは判断した。 「すみません、縫います。痛いかもしれませんが、我慢してください」 「……好きにしな」 マイアはぶっきらぼうにそう答えると、リスルから視線を逸らした。リスルは祭壇の上に揃えられたいくつかの薬の瓶と針、手燭を持ってくる。 リスルは茶色い液体の入った小瓶の中身を傷口に振り掛けて消毒し、糸を通した針を手燭の火で炙る。別の瓶に詰まった緑色の軟膏を傷口の周りに塗布し、なるべくマイアが痛みを感じることがないように感覚を鈍麻させた。 リスルはかつてレイモンに教えられた知識を思い出しながら、慎重に傷口を縫っていく。皮膚に針の先端を刺したとき、まだ痛覚が残っていたのか、女性は一瞬びくりと肩を震わせたが、何も言わなかった。 縫合が終わり、化膿止めの軟膏を塗って、傷口に当てがった清潔なガーゼの上から包帯をくるくると巻くとリスルは立ち上がった。怪我人はこのマイア以外にも大勢いる。次の患者の手当てをしなければならなかった。 先程のマイアとの問答が効いたのか、拍子抜けしそうになるほどにその後の処置はスムーズに進んだ。リスルに対して、疑念や恐怖の眼差しを向けてくる者はいても、噛みついてくるような者はもういなかった。 リスルが火傷を負った女性の処置をしていると、階段の上が途端に騒がしくなった。目を凝らすと、担架代わりのトタンに乗せられた人間が、何人かの男たちに担がれているのが見えた。 階段を降りてきた男たちが担いできた人物が小柄な老人であることに気づくと、リスルは目を見開いた。その老人は、村長のゼエンだった。 「何があったの?」 リスルはゼエンを担いできた男たちへと問うた。彼は頭から血を流しており、意識がない。耳や鼻からも赤い筋が伝っていた。 男たちの一人が舌打ち混じりに忌々しいものを見るようにリスルへ視線を向けると、 「消火活動の最中に上から木材が落ちてきた」 端的な説明にリスルはそう、と頷くと問いを重ねる。 「村長はすぐに意識を失ったの? 吐いたりはした?」 吐いてはおらず、頭を打った衝撃で気を失ったみたいだったと男は答えた。それを聞きながら、リスルはざっとゼエンの頭部を確認した。左耳の後ろに痣のようなものが見て取れて、彼女は険しい表情を浮かべた。 (耳の後ろに痣ができている……よくない兆候ね。こういうときって確か、脳が出血している可能性があったはず……) 放っておけば命の危険がある。秋から冬にかけての季節が一つ移ろうまでの短い間だったとはいえ、イーシュのことを受け入れて見守っていてくれたこの老人をリスルは死なせたくなかった。 今、リスルにできることは一つしかなかった。彼女はイーシュと交わした約束のことを思った。胸が痛かった。 (あの子との約束……守れなくなっちゃうわね……。だけど、わたしはこの人を死なせたくない……!) ゼエンの体を床の敷物の上に横たえると、リスルは膝をついて地下の冷たい空気を静かに吸い込む。体内に取り込まれた空気によって膨らんだ腹にぐっと彼女は力を込めた。彼女は目を閉じ、意識を研ぎ澄ませた。先程のロイゼン山での失敗を思うと怖くはあったものの、ゼエンを救いたいという一心が彼女を突き動かしていた。 リスルは脳内で暖かく優しい光を思い描く。春の木漏れ日のような柔らかく包み込んでくれる光だ。リスルの髪が赤い色を帯び始める。《ヴィサス・ヴァルテン》の力を行使するときの炎のような赤色ではなく、早朝の水平線を染める淡い黄赤に近かった。 リスルはゆっくりと瞼を開く。その瞳はいつもの能力の発動を示す真紅ではなく、朝焼けに似た透明感のある朱色だった。彼女の手のひらに柔らかな光が宿る。彼女はゼエンの頭部に手のひらを翳す。 ゼエンの頭の傷口にまとわりついた光が彼の中へと吸い込まれていく。次第に彼の傷が塞がっていく。 リスルはいきなり体が重くなるのを感じた。リスルは床へと崩折れた。視界が真っ黒に染まる。意識が遠くなり、体から力が抜けていくのを感じたが、彼女は意志の力で無理矢理自分を繋ぎ止めようとする。 (駄目……わたしは、まだ死ねない……死ねないの……!) 頭をよぎったのはイーシュのことだった。ようやく自分の人生を歩き出す気力を取り戻したあの少年を残して逝ってしまえば、きっと彼の心に新たな傷を刻んでしまう。 リスルの視界に次第に光が戻ってくる。しかし、網膜に映る景色はピントが合わず霞んでいた。もう自分の力で動くこともままならないけれど、幸いにもまだほんの少しだけ自分には時間が残されていそうだった。 室内がざわついていた。聖女だ、と誰かが呟いたのが聞こえた。聖女という単語が怪我を負った人々の間を伝播していく。 「シスター・リスル……あんただったか」 リスルのすぐそばで掠れた老人の声がそう言った。 「村長……! お身体は大丈夫ですか? 頭が痛いだとか、吐き気がするだとかそういったことは?」 ゼエンが意識を取り戻し、うっすらと目を開いていた。大丈夫だと頷くと、ゼエンは血で汚れた顔に微笑みを浮かべる。 「人々の怪我や病を癒しながら国内を転々とする『聖女』……話には聞いたことがあった。今ので確信した。あんたのことだろう?」 「人によってはわたしのことをそう呼ぶこともありますが……わたしには過ぎた名です。わたしはわたしにできることをしているだけですから」 ゼエンの言葉にリスルは苦笑した。 ともかく、ゼエンの命を無事に繋ぐことができた。そのことへの安堵により、ふっと緊張の糸が切れ、リスルは意識を失った。木枯らしに吹かれて、色づいた木の葉がどこまでも高く青い秋の空に舞っていた。 イーシュは目の前に広がる記憶のままの風景に足を止める。紐で無造作に束ねた灰色の髪とグレンチェックのチェスターコートの裾が冷たい風で揺れる。 五年前の冬、リスルによって一命を取り留めたイーシュは、雪が溶け、花の蕾が綻び始める季節まで、この村に滞在していた。その間に、命を落としたリスルの葬儀を済ませ、村の復興作業へと彼は携わった。 それからというもの、イーシュはどうしてもこの村――ヴェレーンには足が向かないまま、国内を転々としていた。あの日、この村が山火事に巻き込まれたという負い目が彼の足をこの村から遠のかせた。 たまに立ち寄った町で日雇いの仕事をしては小銭を稼ぎ、その日暮らしを続けているうち、背も伸び、顔立ちも大人びて、イーシュは青年といっていい年になっていた。しかし、これから年を重ねて、あのころのリスルの年を追い越したとしても、到底彼女に追いつけるとも、彼女のようになれるとも思えなかった。 イーシュはキャメルのボストンバッグを持ち直すと、歩き始めた。時期が終わりに近づいてきた金木犀が風に乗ってふんわりと香ってくる。 すっかりあのころと変わらぬ景色を取り戻した村の中を懐かしさと鈍い胸の痛みを感じながら歩くうち、イーシュは比較的大きな一軒の家の前へと来ていた。以前、彼がこの村に滞在していたころ、一時期身を寄せていた村長の家だった。庭先ではまだ少し時期が早いはずの花の蕾が綻び、甘やかだけれどほんのりとスモーキーな色を覗かせていた。その花を見るとどうしても、もうこの世にはいない女性のことを思い起こしてしまい、イーシュは少し苦しくなる。 イーシュは扉をノックしようとして、躊躇った。悴んだ手が行き場をなくして彷徨う。 あの翌年の春に、自分の中でいろいろなことに半ば無理矢理区切りをつけてこの村を発つときに、いつでもまた訪ねてきてほしいとは言われてはいた。けれど、イーシュはそんな社交辞令を鵜呑みにして、招かれざる客が何をしにまたこの村を訪れたのかと、この家に住まう人々の表情が歪むのを見たくはなかった。 「あら、あなた、どこかで……?」 背後から年老いた女性に声をかけられ、イーシュは振り返る。草花をあしらった深緑のショールを肩に纏った小柄な老女が口元を押さえてこちらを
街道を馬車が走っていた。西へと続くこの街道の先には、宗教都市レシェールがある。 灰色の空からこぼれ落ちてくる花の霙を窓越しに何とはなしにスフェルが眺めていると、彼の向かい側に座るセイランが声をかける。 「スフェル殿下、もうすぐレシェールに着きます。しかし、本当によろしかったのですか? 王族ともあろう殿下の供が私一人で。このように少人数での視察など……有り体にいえば教会関係者にナメてかかられます」 「そう言うから、お前を連れてきたし、馬車での旅にすることを了承したではないか。本来なら、私が単身、オリーブで訪問すれば事足りることだというのに」 己の従者の諫言に、スフェルは嘆息まじりにそう返す。セイランは溜め息をつきたいのはこっちだと胸中で思いながら、 「殿下はあまりにも王族の威厳や形式というものを軽んじすぎです。こうした少人数での電撃訪問で教会側の意表を突き、取り繕う暇を与えないようにするという殿下の意図はわからないわけではないですが……。ですが、せめて身の回りの世話をする侍女の一人くらいはお連れください」 「子供ではないのだから身の回りのことくらい、自分でできる。それに、私にはお前がいるのだから、何も問題はないだろう? 私の側には信頼できる者だけがいればそれでいい」 「でしたら、いい加減エミルを殿下の侍女として召し抱えられたらいかがです? 彼女であれば、書類上は我が家の末席に連なる身分ですから、誰にとやかく言われる心配もありませんし、何より殿下を裏切ることは絶対にありませんから」 スフェルは窓の外の空と同じように表情を曇らせる。ヘーゼルの双眸に物憂げな色を浮かべると、 「私の都合で、あの子の人生をこれ以上掻き乱すことがあってはならないだろう。あの子は窮屈な城よりも市井で穏やかに生きるべきだし、今回のような視察に同行させればあの子の身が危険に晒されかねない。それに、一度あの子には私のそばで働くことを断られているから、しつこく誘うつもりはない」 「要はエミルに嫌われたくないというだけの女々しい理由でしょうに……まったく、殿下は年ごろの娘に嫌われたくない父親か何かですか?」 「……そういうつもりはないのだが」 「常々申し上げておりますが、殿下はエミルに入れ込み過ぎです。それに、以前に殿下がエミルに城で働くように勧めたのは出会って間もないころ
炎の波の中で壁が建物の焼け残った骨組みが黒々とその姿を浮かび上がらせていた。瓦礫が赤い光をちらつかせながら地面に折り重なっている。その様はさながら廃墟のようで不気味さを感じさせた。 イーシュは逃げ遅れた人がいないか確認しながら、崩れかけた建物を周っていた。まとわりついてくる空気が熱い。喉の粘膜を焼かれないようにイーシュは外套の袖口で鼻と口を覆う。 いつ崩れてくるともしれない、瓦礫と化した建物の残骸をイーシュは慎重に調べていく。先程も、柱を失った家の梁が落下してきて、消火活動の指揮を取っていた村長が頭を負傷し、運ばれていったのを見た。 近くから誰かの呻き声を聞いた気がして、イーシュは辺りを見回した。積み重なって倒れた家の柱の下から赤く焼け爛れた小さな人の手がのぞいていた。 「大丈夫ですか!」 イーシュは轟々と炎を上げる建物へと駆け寄り、柱の木材を押し上げようとした。焼けて炭になり始めているとはいえ、成長途中の少年が動かすにはそれは重過ぎた。べろりと手のひらの皮膚が剥ける。 小さく切れば動かすことができるかもしれないと、イーシュは思った。何かを切るにはお誂え向きの力が自分にはある。問題は自分がそれを一人で制御しきれるかどうかだった。 しかし、迷っているだけの余裕はない。イーシュ一人でもどうにか力を使いこなすしかなかった。失敗して力を暴走させてしまったらだとか、間違って下にいる人ごと切ってしまったらなどと躊躇してはいられなかった。 イーシュは目を閉じ、腹に力を込めた。意識を集中させ、鋼でできた花を思い描く。幸い、先程のロイゼン山での感覚はまだ覚えている。 体の中を背骨に沿ってせり上がってくる力の感覚を右腕へと誘導する。イーシュは琥珀色に光る目を見開くと、わずかに力を解放し、指先に鈍色の花を咲かせた。 イーシュは、鋼の花びらを太い木材にあてがい、慎重に切っていく。 額に汗が滲んだ。集中力が途切れれば、切ってはいけないものまで切ってしまいそうだった。 気道を焼かれたのか、喉がひどく痛かった。しかし、イーシュは手を動かすことをやめない。煙にやられて目も痛かった。しかし、今はそんな些事に構ってはいられない。 木材を小さく切り終え、イーシュは解放していた力を自らの中へ収めた。双眸が元の焦茶色へと戻っていく。 能力の行使で疲弊
煤と泥にまみれた二人がヴェレーンに戻ると、村はめらめらと揺らめく炎に包まれていた。夜と朝の狭間の色に染まった空とは対照的な色に照らされて浮かび上がる景色は、二人が覚えている平和な村からは遠くかけ離れていた。 記憶の中のトラウマを想起して、リスルは慄然として一瞬その場で立ちすくんだ。 「炎が……」 リスルは口の中でそう呟いた。自分が引き起こしたということが共通している目の前の事態は、全てを失った娘時代の晩夏の夜を連想するのには充分すぎた。 ほんの一度、季節が移ろうだけの短い間だったとはいえ、身を寄せ、世話になったこの村をリスルは故郷の二の舞にはしたくなかった。 しかし、長年使い続けた《レーヴェン・スルス》の影響を受けて弱りきっている上に、疲労で万全には程遠い今の体調では《ヴィサス・ヴァルテン》の力を使って消火を試みるのは危険だった。先程、ロイゼン山で力を扱い切れずに暴走させてしまっている以上、ここでまた同じことが起きないとも限らない。焦る気持ちを押さえようとしながら、リスルは何かできることはないかと考え続ける。 「……神父様」 リスルの様子を何もいえないまま気遣わしげに見ていたイーシュは人の気配を感じて振り返る。煤けた法衣に身を包んだ人の良さそうなその人は、イーシュ君と彼の名を呼ぶと、苦い笑みを浮かべる。 「こうなるような気はしていましたが……どうして戻ってきてしまったのですか。先程、忠告はしたはずですよ」 「だって……わたしのせいですから。わたしがもっとしっかり力を扱えていればこんなことには……」 蚊の中ような声でリスルは答え、俯いた。茶色い巻毛が彼女の横顔に浮かんだ表情を隠した。 どういうことですか、とレイモンはイーシュに目配せした。イーシュは泥にまみれたブーツの先で背伸びをして、レイモンへと耳打ちした。 「さっき、リスルさんが山で力を使って山火事の状況を探ろうとしたときに力を暴発させてしまって……。どうにも異能の影響で体調がよくないみたいで、力を扱い切れなかったみたいなんです。それで、そのときに発生した強風で村の方に炎が流されてしまって……」 なるほど、話はわかりましたとレイモンは頷いた。そして、彼は身を屈めて俯くリスルと目線の高さを合わせると穏やかにいう。 「シスター・リスル。あなたがすべてを背負い込む必要はあり
先を行くリスルに追いついたイーシュは、彼女と共に雪の積もった山道を歩いていた。辺りには煙が立ち込めていて、すぐそばにいるはずのリスルの姿さえも見失ってしまいそうなほどに視界が悪い。煙が目に染みて痛い。 リスルは辺りを探るようにしながら、慎重に歩みを進めていた。彼女は記憶の中の地図の情報を引っ張り出して、 「もう少し北寄りに進めば、崖になっていたはず。作業をするなら、たぶんそっちのほうがいいわね。元々燃えるものが少ないから、作業量を抑えられるわ」 方角すら怪しい中、二人はブーツの底で雪を踏みしめながら歩く。今の状況では、すぐにうっかり獣道へ迷い込んでしまう。 ふいにイーシュは体勢を崩し、足元を滑らせた。それまで立っていた場所の雪が崩れ、下へと落ちていく。咄嗟に持っていたシャベルを地面に突き立てたが、体重に耐えられずに傾いでいく。 「あっ」 声を上げたイーシュへとリスルの手が伸びてきて、腕を掴んだ。 「イーシュ、大丈夫?」 そういって引き上げてくれたリスルの腕は若い女性のものらしく華奢だった。イーシュは己を情けなく思いつつも、その腕に縋りながら這い上がる。 「ごめんなさい、わたしのミスね。思ってたよりもだいぶ進んでいたみたい」 「いえ……俺も注意不足だったので……。 ところで、ここが崖になっているってことはリスルさんが目指してたのはここですか?」 「そうみたいね。イーシュ、大丈夫そうなら、その辺りからずっと一直線に地面を掘って、溝を作ってくれる? わたしはこの辺りの木を切り倒すわ」 足元には気をつけてね、とイーシュへ注意を促すと、リスルは持ってきた斧の柄を両手で握り、振り上げようとする。しかし、気迫だけはそれっぽい感じを漂わせているが、姿勢がおかしいのかどことなく腰が引けている。生い茂る木々はどれも太く高かった。イーシュは何回目になるかわからないが、あまりにも無謀なことをしようとしていると思いが脳裏をよぎり、つい口を挟んでしまう。 「あの……リスルさん、斧を使ったことは……?」 「昔、教会の追手から逃げるときに投げつけてやったことならあるけれど……本来の使い方をしたことはないわね。それでもまあ、どうにかするわ。どうにかするしかないんだもの」 「無謀です……」 イーシュは半眼でリスルを見やりつつ、嘆息した。妙に気迫だけ
リスルとイーシュが湖畔の風車小屋に逃れてから三日が過ぎた。 肩から毛布を被り、椅子で眠っていたリスルは、明け方、イーシュによって揺り起こされた。 「リスルさん、起きてください。外が大変なことに……」 「ん……ふぁ……どうしたの、イーシュ」 眠い目を擦り、欠伸を噛み殺した間延びした声でリスルが応えると、イーシュは血相を変えて畳みかけた。 「外を見ればわかります! 山が燃えて……!」 山が燃えている。その言葉に反応して、リスルは完全に覚醒した。彼女は両頬を叩き、真顔になると立ち上がる。被っていた毛布を床に脱ぎ捨てると、彼女はイーシュに引っ張られるようにして小屋の外へ出た。 まだ夜の気配が色濃く残る暁の空の下、ヴェレーン村の向こう側にあるロイゼン山が赤く燃えていた。少女時代のトラウマを刺激され、リスルは口元を押さえて立ちすくむ。何とか絞り出した声も意味のない音にとなり、白い吐息と共に空気中へ霧散していく。 「な……」 山火事が起きていた。風向きが悪く、ヴェレーンへと炎が降りてくるのも時間の問題だった。 これに関われば自分はきっと、生きて朝日を見ることはないだろう。何となくそんな予感がした。 けれど、これは自分たちが招いた結果だ。リスルは我が身可愛さにこのままこの地を離れることなどできなかった。 「ロイゼン山へ行くわ。イーシュはここにいて」 ロイゼン山のある南西の方角へ走り出そうとするリスルをイーシュはその腕を掴んで止める。 「やめてください、危ないです。そもそも行って何をするつもりなんですか」 「わたしにできることをするの。《ヴィサス・ヴァルテン》の力をもってすれば、直接的な鎮火はできなくても、燃え広がる方向を変えることくらいはできるわ。緩衝帯を用意してそっちに炎を誘導してやれば……」 リスルは一人で木を切り倒して燃えるものを無くし、地面を掘って溝をつくることで延焼を食い止めるつもりだった。リスルがそれをイーシュに話すと、彼は首を大きく横に振った。 「無理ですよ! リスルさん一人でできることじゃないですよ! いくら異能があるっていったって、それ以外はリスルさんは普通の女の人じゃないですか! 無謀です!」 「無理でも無謀でもやらなきゃいけないの。これ以上、あの村に迷惑はかけられないもの。 イーシュ、気付いている?